母さんは明日、火葬場に運ばれる。






  8月





 最後に、生きている母さんに会ったのが26時間前。この夏一番の酷暑の日だった。
白い部屋の中。自力で呼吸することさえ儘成らず、母さんは沢山の管に繋がれ、生かされていた。引き摺りだされた、血管の役割をする半透明の管の中を、名前も知らない液体が絶え間なく流れていく。
その管の先。白く細い、痛々しい程に痩せた腕の内側には、変色し、青黒く成った点滴の針の痕が、幾つも、あった。母さんは僕を怨むだろうか。
ガラガラと耳障りな音を立てながら、備え付けのパイプ椅子をベットの近くまで引き摺る。お世辞にも座り心地が良いとは言えない、その古びたパイプ椅子だけが、此処での僕の居場所だった。
身を乗り出すと、ギシ、と椅子が小さく鳴く。僕は、そのまま骨に成ってしまいそうな手首を軽く握ってみる。想像していたよりも、ずっと温かな皮膚は、安堵よりもむしろ、不安を齎す。トクトクと、弱々しいが未だ絶えない脈を掌に感じた。僕は罪悪感の様なものを押し殺して息を吐く。
母さんの瞼が小刻みに痙攣しながら持ち上がり、ぼんやりとした、焦点のずれた眼が僕を見て、また静かに閉じる。
かあさん?呼びかけた声は掠れてはいたが震えてはいなかった。かあさん?
僕は暫く、黙って白い瞼を見ていたが、母さんは眼を開かなかった。
 今日の面会時間はおしまいですよ。僕と入れ代わる様に入ってきた看護士に、軽く頭を下げて立ち上がる。少し迷ってから、椅子は其の儘にして置いた。看護士は何も言わなかったし、僕も何も聞くことは無かった。母さんはたぶん、死ぬ。
僕はドアの前で立ち止まり、母さんを見る。
長期間の投薬治療の副作用で、黒かった髪は、色素が抜け落ち赤茶け、枯れた藁の様に枕に散らばっていた。カーテンの隙間から差し込む、真っ白な光に白く塗りつぶされた顔。パイプ椅子の濃い影。低いエアコンの音。嗅ぎ慣れた、死のにおいがした。


 その日の夜、母さんは逝った。
誰に知られる事もなくひっそりと。翌朝、看護士が発見した時にはもう、何もかもが終わった後だったそうだ。
母さんは、自分で自分を看取り、ひとりで全てを終わらせたのだろうと、思った。


 知らせを聞いた時、涙は出なかった。これで終わったのだという気持ちの方が大きかった。僕はとても疲れていた。途方も無い疲労を引き摺ったまま、館長と龍麻と、形だけの親戚に連絡をして、さて、これからどうするんだっけと、冠婚葬祭のマニュアルを捲る。悲しみは日常に忙殺される。兎に角、疲れていた。


 「紅葉?おい、大丈夫か?紅葉?」


 受話器越しの龍麻の声と、ベランダの向こうから聞こえるクマゼミの唱和。せめて泣ければ、何かが違ったのだろうか。僕は意味もなく、冷蔵庫の扉を開けたり閉めたりしてみる。スライスされたチーズの色が鮮やかだった。






















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06,02,12